icon-plane 第1回 マレーシアの大学院ってどんなところ?

第1回 マレーシアの大学院ってどんなところ?

 

意外に知られていないマレーシアの歴史。三民族が共存する国になったのはなぜなのか。マレーシアの最高峰マラヤ大学歴史学科で10年の研究のち博士号を取った伊藤充臣さんに、マレーシアを含む東南アジアの歴史を、さまざまな視点から解説してもらう試みです。隔週連載となりますのでお楽しみに。

 

 

 はじめまして。今日からマレーシアを中心とした東南アジア史のコラムを書くことになりました。よろしくお願いいたします。

 

 自己紹介をしますと、私は2006年に入ったマラヤ大学人文社会学部歴史学科の修士課程でマレーシア史を専攻。修士終了後は博士課程に進み、そこで東南アジア史の博士号を最近取得しました。マラヤ大学に単独で来る日本の留学生はほとんどいませんので、少し大学院の話をしましょう。

 

授業開始日に誰もいない!

 

 大学院には入学試験はありません。当時は申請書と推薦書、研究内容、英語のTOEFL結果(ペーパー版で550点以上)を提出すればOKでした。英語についてはこの点数に届かなくても条件付きで入学はできますが、論文作成やプレゼンをするには点数が低いとやはりきついでしょう。

 修士課程の入学許可が下りたのは確か12月初旬。授業は下旬に始まる(注1)とあったので、仕事を辞めて中旬に急いで来馬。大学内の高等教育局(IPS)で入学手続きをしたとき、授業開始は24日(クリスマスイブ)からと知らされました。年末からなぜ始まるのだろうと思いましたが、イスラム暦の断食月を中心に毎年の学期開始が決まる流動的なカレンダーであることを、このとき知りました。

 

 しかし! 驚いたことに授業開始日に学校の教室に行っても誰もいない! 修士課程の授業は金曜夕方と土曜日に行われますが、学生どころか先生も来ていない! 次の週に行くとやっとインド人の先生だけが教えに来ましたが、学生は私一人でした。
 その次の週ぐらいからポツポツと学生は増えましたが、当初なぜ誰もいなかったのか、未だにはっきりとした理由はわかりません。

 

授業の言語は先生によって違う

 

 授業が進むに連れて気づいたことがいくつかあります。

 

 まず、学生のほとんどがマレー人。インド人数人、華人は皆無で、ほとんどが社会人です。しかし、修士という高等教育にもかかわらず、学生の多く(特にマレー人)は英語ができない。このため、マレーシア史を勉強する上で必要な膨大な英語の資料の読解ができず、彼らはマレー語に翻訳された書籍のみに頼って研究を進めるのです。この言語問題は当然、教授言語にも影響してきます。
 授業の言語は、先生によってまちまちです。マレー語と英語を混ぜて話す先生や英語を得意としないマレー人教授もいらっしゃる。私の場合、インドネシア語を勉強していたので(注2)、何とか授業にはついていけましたが、テキストやプリント類はなかったので予習なしでは難しい。教授言語は学部学科によっても違い、理系の学部は英語の授業が主流のようです。試験は筆記の論文形式で、試験用紙も2言語対応。回答言語もどちらでもかまいません。修士論文も言語選択制ですが、最初に書く要旨はマレー語が必須です。そういえば、博士の口頭試験でも何語にするか、きかれました。

 

 つまり、国立大学内でさえも教授言語はマレー語一つで統一されていないのです。これは現在のマレーシアの言語状況を表しているともいえます。複雑でゆるい多民族社会のなかで、言語も多種多様で一つにするのが難しいのです。
 次回は、この国の社会がどのように成立したのかを歴史的に見ることにしましょう。

 

 

注1:学校は2学期制で、大学院は学期毎にいつでも入学可ですが、卒業式は9~10月と決まっています。
注2:インドネシア語とマレー語はまったく同じではありません。

 

伊藤充臣■在馬12年目。マラヤ大学の歴史学科で修士号と博士号をだらだらと10年がかりで取得。趣味は読書と語学勉強。日本の小説に最近は読みふけっていると同時にミャンマー語の勉強も始めた。