icon-plane 第22回  「マレーシア人」はどこにいたのか

第22回  「マレーシア人」はどこにいたのか

 

2018年5月9日の下院議員総選挙は独立以来初の政権交代となりました。マレーシアの政治史でも大きな分岐点となり、今後多くの研究者が分析を行っていくでしょう。しかし、それだけではありません。この政権交代は「マレーシア人」というアイデンティティーが浸透した点でも、画期的な政権交代だったのではないかと思います。今回はこのアイデンティティーの変遷を歴史的な観点からみていきます。

 

多民族社会は多様なアイデンティティーのるつぼ

 

マレーシアはマレー人61.7 %、華人20.7%、インド人6.2%、その他1%(2017年現在)からなる多民族社会です。このほかにもこの数字には含まれてませんが、合法不法も含め、インドネシア人やフィリピン人、ビルマ人、バングラデッシュ人など100カ国以上からの出稼ぎ労働者が多数います。
 
東南アジア諸国では、華人も含めて少数民族に対して、同化政策を適用して国造りに励んできました。その典型はインドネシアやタイで、華人は華人名を使用していないため、一見して華人かどうかはわからないことが多いのです。
 
しかし、マレーシアの場合、華人やインド人の人口比率が極めて大きく、同化政策を適用することはできません。独立以前から三大民族が個々の民族共同体を維持し、独立後は政治的に協力して国造りに専念してきたのです。
 
第二次世界大戦前からマレー半島の華人やインド人は、それぞれ本国の中国やインドの政治に大きな関心を払っていました。このため、マレー半島での華人を代表する政治団体としてマラヤ華人協会(MCA)やマラヤ・インド人会議(MIC)が創設されたのは、マレー人を代表する統一マレー人国民組織(UMNO)が1946年に創設された後で、マレー半島内での政治活動は遅かったのです。

 

マレー人、華人、インド人はそれぞれ言葉も文化もまったく違います。これをどう一つにまとめて国民のアイデンティティーを創りあげていくかが、独立前後から大きな課題となっていたのです。

 

強固な民族別アイデンティティーのなかでの独立

 
そもそもUMNOは、イスラム教を信仰するマレー人アイデンティティーを守るために創設されたのです。まず、UMNOがなぜできたのかを振り返ってみましょう。
 
1946年に英国がマラヤ連合を一方的に創設します。これは英国植民地政府が英領マラヤとペナンやマラッカの海峡植民地を別々に支配し、煩雑であったことから一つの連合にまとめたのでした。この連合下では、スルタンの権限縮小や華人とインド人らに民族に隔たりなく市民権を与えるとの措置が取られました。ところが移民らと平等に扱われることにマレー人たちは猛反発し、ジョホール王国(当時)のダトー・オンがUMNOを創設したのです。そして、それまで各王国のでばらばらだったアイデンティティー(例えば、クダ王国マレー人)をマレー半島のマレー人として一つにして団結させ、2年後にマラヤ連合を廃止に追い込んだのです。

 

しかし、すでに多くの華人やインド人が半島内に定住しているのを鑑み、1950年頃からダトー・オンはUMNOの党員加入の門戸をマレー人のみでなく、他の民族にも開こうとしました。しかし、UMNOの主要幹部らはこれに猛反発。彼は翌年、総裁を辞任してマラヤ独立党(IMP)を立ち上げ、マレー人だけでなく、多民族の党員からなる政党を作ったのです。

 

ダトー・オンのこの試みは失敗に終わります。1952年に行われたマレー半島史上初の選挙となったクアラルンプール市議会選挙で、IMPも候補者を立てましたが、UMNOとMCAの連合勢力に完敗。「マラヤ人」という意識の確立を目指しましたが、うまくいきませんでした。UMNOとMCA(のちにマラヤ・インド人会議(MIC)が参加)が連盟党という連立政党を作り、民族別の政党が連合して一大政治勢力となることが定着していきました。このため、1957年のマラヤ連邦の独立後も「マラヤ人」との意識の創出にはつながらなかったのです。

 

シンガポールの独立とマレーシア人意識創出の失敗

 

1963年にサバ州とサラワク州、シンガポールを含めたマレーシア連邦が結成されました。三大民族が多くいるマレー半島のうえに上記三地域が組み込まれ、イバン族やカダザン族など少数民族が増えたことで、マレーシアはさらに多くの民族を抱える多民族国家となりました。

 

結成後まもなくして、マレーシア中央政府とシンガポール州の考え方の相違が表面化し、経済的対立から政治的対立に発展します。中央政府のマレー人を中心とした政治運営に真っ向から反対したリー・クアンユー同州首相は全民族が平等な「マレーシア人のマレーシア」という国家理念を主張。上記両州の政治指導者らと運動を展開しましたが、シンガポールでは民族暴動にまで発展しました。政治的な対立が深刻化し、さらに暴動拡大の危惧もあったことから、中央政府はシンガポールを1965年8月に連邦から追放。リー同州首相が唱えた「マレーシア人」の覚醒には至りませんでした。ある意味でマレーシア政府がマレーシア人意識の覚醒を拒否したとも受け取れます。そして、各民族のアイデンティティーが強いまま1969年を迎えます。

 

1969年5月13日はマレーシアの歴史のなかで重要な日です。下院総選挙直後にマレー人と華人の人種暴動が起こり、100人以上が死亡したためです。これにより議会は凍結され、憲法も停止されました。今年の総選挙で野党が政権を獲得したとき、与野党の政治指導者らが最も恐れたのはこの人種暴動の再来だったのです。

 

この人種暴動をきっかけに「マレーシア人」の創出は難しくなっていきます。政府は1970年に新経済政策(いわゆるブミプトラ優遇政策)を実施。ブミプトラ(マレー人と少数民族)への偏った優遇措置を講じたため、華人やインド人の間では不公平感が広がり、より各民族のアイデンティティーが強くなったことも否めませんでした。

 

1990年代のマハティール政権は、1991年に「ビジョン2020」という2020年までに先進国入りを果たす国家長期計画を示しました。ここでは、先進国の実現項目の一つに、「運命を共有する統一された『マレーシア民族』のもとで、国家に対して忠誠と献身的な態度を示す国民の創出実現が必要」と説いています。つまり、「マレーシア民族」または「マレーシア人」の意識がまだ確立していないとの認識を示したのでした。創出実現の必要性を1990年になって初めて政府が言い出したのは興味深いところです。

 

マレーシア人意識の覚醒と政権交代

 

そして、イブラヒム・アンワル氏が同性愛疑惑などから副首相から解任されると、妻のワン・アジザ氏(現副首相)が人民公正党(PKN)を立ち上げ、どの民族も党員になれるようにしました。民主行動党(DAP)も同様のコンセプトでしたが、華人系政党のイメージが強く、マレー人があまり寄り付かない状況でした。PKNの創設の重要な点はマレー人主体の政党でありながら、他民族に開かれた政党だという点です。ここが起点となって「マレーシア人のマレーシア」の国造りを目指したことが今回の政権交代につながったともいえるでしょう。

 

PKNはその後、人民正義党(PKR)に衣替えし、DAPや汎マレーシア・イスラーム党(PAS)などとも連立しながら、与党に対抗してきましたが、2008年の総選挙前後から力をつけていきます。つまり、PKRなどは大規模な抗議デモなど展開していき、広く支持を得ていったことで、「マレーシア人」の意識が徐々に人々の間で浸透していったのでしょう。

 

それでは、1963年から2008年までの45年間、「マレーシア人」はどこにいたのでしょうか。「マレーシア人のいないマレーシア」だったのでしょうか。政府首脳や政治家らだけでなく、庶民もこの期間に自らを「マレーシア人」とあまり言わなかったことからすると、おそらく「マレーシア人」の意識は誰ももっていなかったのでしょう。つまり、独立以来、「国民がいない国家」という、世界でも例をみない不思議な国だったということになります。

 

 

伊藤充臣■在馬歴13年目。マラヤ大学人文社会学科歴史学科で修士と博士号を10年がかりで取得。趣味は読書と語学。専門の東南アジアを極めるため、最近ではクメール語に注力している。

 

記事掲載日時:2018年06月20日 05:20