icon-plane イザベラ・バードの見たマレー半島

イザベラ・バードの見たマレー半島

 

今回は、ちょっと趣向を変えて、英国人の女性旅行家、イザベラ・バードがマレー半島に来たときの記録を見てみましょう。彼女はマレー半島の模様をいきいきと記しています。彼女の書籍には挿絵も豊富に掲載され、当時の社会を見るには貴重な記録なのです。

 

 

船で世界を渡った女性旅行家

 

 イザベラ・バードは1831年に英国で生まれました。幼少の頃に病弱だったため、家族と米国などへ転地療養をしたことから、成長するにつれて旅への憧れが大きくなっていきました。米国や豪州だけでなく、19世紀の日本や朝鮮半島、中国、チベットなどを一人で歩き回りました。1878年に3カ月ほど来日し、北海道など北日本を、その後も関西方面を旅行してのちに2冊の書籍を出版しています。

 

 日本訪問後、香港、広州を周って、ベトナムに到着。そこから1879年1月19日にシンガポールに渡りました。あまり興味がなかったのかシンガポールには一泊したのみで、翌日には中国人の蒸気船でマラッカにたどり着いたのです。ここからの約1カ月の紀行が『Sketches In The Malay Peninsula』(1883年刊行)と『The Golden Chersonese and the way Thither』(同年刊行)(両方とも邦訳本はなし)の2冊にまとめられました。

 

 マラッカに到着したイザベラは、その印象を「長い湾になっていて、ヤシの木が鬱蒼としている」と述べ、町には中国人が多いと記しています。

 

 マラッカには3日ほど滞在し、船でスンガイ・ウジョン(現在のヌグリ・スンビラン州)に6日間逗留。再び船でスランゴールのクランに入り、ペナン島に向かいました。そして、数日後にはペラのラルットを経て、クアラ・カンサールに到着。スズ鉱山の町で中国人が多いタイピンで過ごした後、ペナンに戻り、1879年2月25日にマレー半島を離れたのです。マレー半島でのほとんどの交通手段が川を利用した船で、ペラではゾウと徒歩で移動しました。 

 

自然に溢れたマレー半島

 

 イザベラの記述内容は多岐にわたりますが、19世紀のマレー半島がいかに自然溢れる世界であったことがいきいきと描かれています。マレー半島には今でも多くのジャングルがありますが、イザベラが訪れた頃はまだゴムなどのプランテーションはなく、広大なジャングルがそのまま残っていました。多くの野生の動物も生息しており、それをつぶさに記録しています。

 

 動物の記述が最も多いのが特徴です。イザベラにとって、マレー半島では動物が一番気になったのでしょうか。トラやゾウ、ワニ、ヘビ、水牛、猿、アリ、蚊、ヒルなどが挙げられています。トラは民家によく現われ、人を食い殺したと記載しています。イザベラが泊まっていた英国理事官公舎近くでも頻繁に出現し、怖い思いをしたのです。彼女によると、当時の植民地政府はトラの皮や骨を持ってきた者には賞金を出す制度があったとのこと。トラがいかに多かったが伺えます。彼女はワニについても川の周辺でよく見かけたと記録しています。多くのワニも生息していました。

 

 また、高床式の民家では夜になると家の下で焚き火をし、蚊を追い払う姿がよく見られたとのことです。彼女は蚊には大変悩まされたようで、寝る際はベッドの周りにネットを張って寝ていました。夜は至って静かでしたが、聞いたこともない野獣の声に慄き、よく目を覚ましたそうです。ある宿泊施設では、夜中にネズミやトカゲ、猿が侵入してくることがあり、怖かったと語っています。

 

 朝になると、枕の下にはヘビやムカデが潜んでいたこともあったようで、昼夜を問わず、生きた心地がしなかったのです。

 

民衆の生活も描かれている

 

 彼女はペラのクアラ・カンサールでマレー人の結婚式に参加。彼女によると、上流階級のマレー人女性はたいがい14~15歳で結婚し、婿は花婿の顔を結婚式当日まで見ることができませんでした。

 

 また、結婚式前に花婿は固い石や鉄で本来の歯の4分の1の長さまで削った上、鉄の上で焼いたココナッツの殻から出てきた黒い液体を歯に塗り、日本のお歯黒のようにしていたといいます。イザベラは、その姿は不気味だったと感想を漏らしています。

 

 中国人の生活の記述も多く、中国人男性は金持ちのみに妻がいたことも指摘しています。スズ鉱山の労働者らは男性ばかりで、ほとんど中国人女性を見かけない男性社会だったとし、中国人男性は毎晩アヘンを吸って癒していた状況も報告しています。

 

 イザベラは豚を盗んで捕まった中国人の裁判も傍聴。英国の判事は中国人の言葉が分からないため、通訳を介して審理されましたが、彼女は言葉がしっかりと伝わっていないと感じたとも記しています。裁判では判決がなく、被告が釈放されたことから、「ここでは真実が何なのかよく分からない」と疑問を呈しました。特に中国人の秘密結社が関わると真実はまったく闇に葬られてしまうとも述べています。 

 

 さらに、出身地が異なる中国人同士はマレー語で会話をしていたとのことで、中国人同士でも意思疎通が困難だった社会だと指摘しているのは興味深いところです。
 このほか、マレー人男性のサロンの長さや食べ物、主要な町の多民族社会、脚気による死者なども記されて読んでいて面白い内容です。

 

 この時代に英国人女性一人で旅をするには大変な体力と気力がいったと思われます。彼女にとっては刺激溢れる世界であったのですが、野生の動物に苛まれ、また暑さにも相当まいったらしく(彼女は温度計を携帯し、マレー半島の気温が常時32度以上であったことを記録しています)、マレー半島では身の危険が常にまとわりついていました。危ない自然の中で心身ともに疲れ果てなかったのか不思議です。

 

 マレー半島は20世紀以来、ゴムなどのプランテーションができたり、道路や町ができていったりと景色が大きく変貌しました。イザベラの書籍は一般の読者が19世紀のマレー半島の原風景を直接読むことができる希少なものです。現在のマレー半島と比較するうえでも面白い書籍ともなっており、マレー半島の歴史に興味がある方は一読をおすすめします。

 

 

伊藤充臣■在馬歴13年目。マラヤ大学人文社会学科歴史学科で修士と博士号を10年がかりで取得。趣味は読書と語学。専門の東南アジアを極めるため、最近ではクメール語に注力している。

 

記事掲載日時:2018年08月05日 22:43