icon-plane 自分の中の他人の目を気にして生き難くなる日本人

自分の中の他人の目を気にして生き難くなる日本人

 

「他者からの評価」「他人の目」を気にする日本人の気質はよく語られている。しかし、実際のところそこまで本当に他人のことを気にしているのか? 日本型村社会の要因を、渡部先生に深く分析してもらった。

 

このコラムで、繰り返し述べてきたが、日本人は他文化の人々に比べ、「他者からの評価」や「世間の目」を非常に気にする特徴がある。

 

それが良いほうに働くと、お互いが気遣いをする文化となる。日本を訪れた多くの外国人が「日本は清潔で民度が高い」と賞賛してくれるのは、その例といえる。その一方で、その一方で、他人の目を気にするあまり、「社会的ビクビク人間」になってしまい、思ったことが言えない、人間関係にやたら疲れる、などの弊害もでる。

 

日本型村社会の文化の要因は、この気質にあると筆者は考えている。

 

この話は、方々で書いたり話したりしてきたが、日本人の皆さんは、「そーですよね。ホント、日本って村社会ですよね」と大方同意してくれる。

 

そういう人々、特にマレーシアを含む海外に暮らす人々は、常に異文化に触れているため、そんな日本人の特性を肌で理解しやすい。だから、「あまり他人の目なんか気にしないでもやっていけるよ」と話してくれる人もいる

 

ところが、最近分かったのは、そういう人々でも、一旦日本社会に入ると、個人差こそあれ、やっぱり社会的ビクビクモードに入って、あたりさわりのないように過ごそうとするのだ。その結果、マレーシアでも日本人が集まるコミュニティでは「日本型村社会」ができてしまう。

 

なぜ、そうなってしまうのかをずっと考えていたが、最近ある仮説にたどり着いた。

 

皆が気にしているのは「自分が想像している他人の目」である

 

それは、皆が気にしているのは、「実際の他人の目」ではなく「自分が想像している他人の目」だからだ。

 

身近な例を挙げてみよう。マレーシアのショッピングモールなどを歩いていると、ときどき「ちょっとその恰好はどうみても、あなたには似合わない」と思わざるを得ないローカルの人を見かけることがある。

 

もちろん、日本でもたまにあるが、「そういう恰好」をしている人の割合は、まず間違いなくマレーシアの方が多い。ついでに言えばアメリカでも多い。

 

その人はなぜ自分に似合わないような恰好をするのか? 単純に考えられるのは、そんな恰好をするのが「好き」だからだ。それに対し、日本人が持ちがちな基準は「こんな格好をしたら周りが自分をどう思うだろうか」である。

 

自分が主体的に好きだと思う恰好と「皆も評価してくれる恰好」が一致するならいいが、実際はそうではないことが多い。ローカルの人は、自分の好みの方を、他者の評価よりも、優先しているため、「周りがどう思おうと自分の好きな格好をする」という選択をするのだ。

 

だが日本文化で育っていると、常に「自分は他者からどう見られるだろうか」と考えるモードに入っている。服装を選ぶ基準も、自分が本当に好きかどうかより、皆がどう思ってくれるかを重視するようになる。

 

これは、服装に限らない。例えば、あらゆる選択場面で、そう考えるようになっている。エスカレーターの片側を空けるのは日本ではよくみられる光景だが、大阪と東京では、空ける側が違う。それは「皆はどちらに寄るのが正しいか」を皆が予想した結果、地域によって違いが出てしまっているからだ。

 

そして、問題は自分の思う「皆がどう思うか」と本当に「皆がどう思うか」は、実は違っている可能性があるということだ。これはネットが普及した今世紀から顕著になったものだ。

 

多くの人はそこまで他人に興味はない

 

例えば、芸能人が子供に可愛い恰好をさせてインスタグラムにアップすると、「〇歳の子供にこんなものを着せるとは非常識、ネットで炎上」などの記事がひっきりなしにでる。

 

大抵の場合、多くの人はそんなことにはあまり興味はない。一部の声の大きい人々がネット上で騒いでいるだけだ。だがそのニュースをみた私たちの多くは、「うわ、こんなことでも世の中はネガティブに見るんだ」と、その炎上を「世間の目」の代表として感じてしまう。一部の人々の極端な行動が、あたかも世論を代表しているかのように勘違いさせてしまう構造がある。その勘違いによって、頭の中で想定する「世間」は、現実よりも非常に狭量で不寛容なものになってしまいやすい。

 

そうすると、もともと「世間の目」に敏感な日本人は。「こういうことすると炎上しないだろうか」「こういうこと言うと、批判されないだろうか」という基準を、「頭の中の狭量な世間」に求めてしまう。そうするとますます萎縮してしまい。人間関係に疲れ、組織は不機嫌になる。

 

実際には日本人は寛容かもしれない

 

筆者が思うに、多くの日本人は、大抵の場合、他人のすることに対して「世間は批判するかもしれないけど、自分は別に気にしないよ」と考えているのだと思う。それはつまり、想像するよりも、実際には日本はもっと寛容であるということだ。ただ、一部、本当に不寛容な人々がいて、ネットや組織で彼らの存在が目立つために、「自分」と「世間」の乖離がでてきてしまうのだと思う。

 

日本のドラマを見ることはそんなには多くないが、今期から始まった菅田将暉主演の「3年A組」は、そんな日本社会、日本人の心性を(かなりデフォルメした形だが)よく描いていると思った。生徒たちの行動の中には、一見ちょっと理解しがたいように思えるものもある。だが、ティーンエイジャーにとっては、世間はむしろネットの中にあり、現実の人間関係をいびつにしてまでも、そちらを優先するような意思決定を行うのが、むしろ事実なのかもしれない。

 

日本のドラマをそのように見られるのは、もちろん日本以外の文化に相対的に触れてきたからだ。マレーシアに住む私たちは、頭の中の世間にあまり囚われすぎず、もっと気楽に生きてよいのだし、そうするべきなのだと思っている。

 

渡部 幹(わたべ・もとき)
モナッシュ大学マレーシア校 スクールオブビジネス ニューロビジネス分野 准教授
 

UCLA社会学研究科Ph.Dコース修了。北海道大学助手、京都大学助教、早稲田大学准教授を経て、現職。現在はニューロビジネスという大脳生理学と経営学の融合プロジェクトのディレクターを務めている。社会心理学を中心として、社会神経科学、行動経済学を横断するような研究を行っている。また2008年に共著で出版した講談社新書『不機嫌な職場』が28万部のヒットとなったことをきっかけに、組織行動論、メンタルヘルス分野にも研究領域を拡げ、企業研修やビジネス講師等も行っている。
代表的な著書に『不機嫌な職場 なぜ社員同士で協力できないのか』(共著、講談社刊)。その他『ソフトローの基礎理論』(有斐閣刊)、『入門・政経経済学方法論』、『フリーライダー あなたの隣のただのり社員』 (共著、講談社)など多数。

 

記事掲載日時:2019年01月28日 19:21