icon-plane 第33回 タワウに日本人名の通りの名があった!

第33回 タワウに日本人名の通りの名があった!

 

東マレーシアのサバ州で三番目に大きい町タワウ市に「Jalan Kuhara」という同市で最長の通りがあるのはご存知でしょうか。何やら日本人のような名称ですが、「Kuhara」とは漢字で「久原」と書きます。今回はなぜタワウにこの苗字が残っているのかたどってみましょう。

 

財界と政界で戦前活躍した久原とは

 そもそも「久原」とは一体誰のことでしょうか。久原とは戦前に政界や財界に大きな力をもっていた久原房之助のことです。現代ではあまり知られていないので、彼の経歴を少しみてみましょう。
 久原房之助は明治2年に山口で生まれた実業家。鉱業や造船、生命保険、肥料など多くの分野で事業を展開しました。久原鉱業という会社を創設しましたが、この会社の資本から生まれた企業がいまもって多く残っています。そのなかで有名なのが日立製作所と日産自動車で、この2社はいわば兄弟会社なのです。
 さて、久原は1914年に石油事業にも参入しました。北樺太や中国、朝鮮、インドシナ半島、フィリピンなどアジアを中心に大規模な資源調査を開始したのです。
 そして、久原鉱業は1916年に英領北ボルネオ(現在のサバ州)で石油と鉱物の探鉱権を獲得しました。しかしながら、石油事業はボルネオ島で十数抗の試掘を開始したものの、数年後には「一滴の石油も出ずに失敗に帰した」(久原の回想録)として失敗に終わります。
 1928年に久原は財界から離れて政界に進出しました。義弟であり、井上馨を大叔父にもつ鮎川義介に久原鉱業の経営を委ねましたが、以後も何らかの形で経営にも関与したようです。久原は田中義一内閣で逓信大臣を務め、その後、与党の立憲政友会の総裁にもなり、首相として目された時期もありました。1936年に起きた二・二六事件では憲兵隊に拘束もされました。
 戦後、A級戦犯となって公職追放を受けたものの、孫文に革命資金を手渡していたことが奏功し、起訴は免れました。日中日ソの国交回復にも尽力し、戦後初めて中国の毛沢東と会った日本人としても知られています。
 なお、久原は1915年ごろから1954年まで東京・白金台の屋敷に住んでいましたが、ここが今の八芳園となります。

 

タワウでの事業開始

 さて、マレーシアの時代の話に戻ります。
 久原鉱業は探鉱権を付与された際に、ゴム栽培用の土地の租借とそれに隣接する原始林の払い下げも受けていました。その場所が現在のタワウ市にあるタワウ川からメロタイ川南部の土地で、その面積は当初800ヘクタールほどでしたが、1928年には約8,560ヘクタールに拡大し、ここで「久原農園」を大規模に経営していきました。農園ではゴムのほか、椰子、マニラ麻、コーヒー、インディゴなどを栽培していました。
 石油事業は失敗しましたが、当時はゴムの需要が世界的にも高まったことから、農園の経営は好調でした。1928年の記録では生産量は年間約317トンにもおよびました。ボルネオ島には当時、大小30の日系農園がありましたが、久原農園は三菱財閥系の窪田農園と並ぶ最大の農園だったのです。

 

農園にユートピアを求めていた

 農園には、最大時には日本人が200人も常駐していました。このほか福建省出身の中国人や台湾人、ジャワ人ら、多いときには3,000人が働いていたのです。これは現地での労働力の調達が難しかったためで、農園は多民族が入り混じっていました。
 当時の記録によると、農園側は労働者に住居や農具を一切貸与し、病人への治療費は無料にしていたといいます。衛生には特に気を使っていたようで、農園入口には「関所」を設けて、入園する際には身体検査を義務づけていたとのこと。また、漁業関連の道具なども地元住民に貸し、魚介類を漁民から買い上げて、それを農園労働者に安価で提供していました。
 実は久原自身はタワウには一回も足を運んでいません。ただ、関係者の証言によると、久原は人口・食糧問題を前から研究し、東南アジアの沃土にも注目しており、タワウに一種のユートピア的経済社会を作り上げようと考えていたようで、この農園をその土台にしようとしていたのかもしれません。
 しかし、賭博やアヘンの中毒になる者も跡を絶たず、本国へ送還される労働者も多くなるなどの理由で、1930年代に入ると労働者は1,000人ほどにまで減りました。農園事業全体にも陰りが見え、第二次世界大戦後に久原農園は英国の企業の手に渡ってしまいました。

 

敬意を示すために記された名称だった

 タワウ市は現在、約12万人ほど都市ですが、久原農園ができたころは、店舗が十数店舗しかないうえ、大通りが2本しかないひっそりとした町だったようです。久原農園などができると町は活気を呈し、タワウ経済にも大きく貢献したのです。そして、久原農園から港へゴムなどを運ぶために敷かれた市内を走る長い一本道は、戦前のいつの日か「Jalan Kuhara」と名付けられたのです。
 日産自動車は1933年に設立されました。詳しい資料はありませんが、久原農園のゴムは当初の日産自動車が作った車のタイヤに使われていたと思われます。
 なお、久原は戦前、現在のトレンガヌ州ドゥングン鉄山にも着目し、こちらの開発と事業化も行っていました。久原鉱業は第二次世界大戦前ごろには経営から手を引きましたが、鉄山は1980年代まで採掘が行われていました。
 

 

伊藤充臣■在馬歴13年目。マラヤ大学人文社会学科歴史学科で修士と博士号を10年がかりで取得。趣味は読書と語学。専門の東南アジアを極めるため、最近ではクメール語に注力している。

 

記事掲載日時:2019年01月29日 09:12