icon-plane 第36回 マレーシアでの女性のめざましい活躍

第36回 マレーシアでの女性のめざましい活躍



マレーシアでは多くの女性が社会で活躍しています。「男性より女性のほうが働くのではないか」と思うほど、民間でも各方面で活発に働いています。女性の活躍は、戦前にはほとんどみられませんでしたが、戦後はめざましく変わりました。今回は、特に女性の政治的活躍について紹介しましょう。

 

古来から19世紀にかけての女性の活躍は

 

日本では古来から政治や文化面などで多くの女性が活躍し、歴史にも名を残してきました。マレー半島では女性が活躍していた記録がほとんど残っていませんが、垣間見ることはできます。

 

植民地以前のマレー半島でいえば、17世紀前後、タイ南部にあったパタニ王国ではラトゥ・ヒジャウという女王が20年ほど統治していました。また、クランタンでは16世紀に女王がいたとの伝説もありますが、現在までに存在の確証はつかめていません。   

 

マレー人社会は男性中心で、社会の中心的な存在として登場する女性はいなかったようです。マレー人女性は、家事や農業漁業の手伝いなどをしたり、市場で農作物や衣服などを売ったりする仕事などにしかついていなかったようです。

 

また、マレー半島にいた中国人やインド人は少数ながらいたものの、19世紀までの記録は断片的で、女性についてはやはりマレー人女性と同じように物を売ったりしていたようです。

 

移民はほとんど男性社会だった

 

19世紀に英国が本格的に植民地経営を進め、スズ鉱山とゴム農園の労働者が中国やインドから多くやってきました。中国とインドからの労働者は圧倒的に男性でした。1881年の記録によると、中国人の到着総数8万803人のうち女性はわずかに3121人。インド人の場合、1869年の移民総数約1万人に対して女性はたった200人弱だったといいます。

 

その後、徐々に女性の人数は増えていくものの、1891年のペラ州の例では、中国人男性17人に対し女性1人しかいませんでした。このため、売春宿が活況を呈します。中国人女性だけでは足りず、シンガポールでは日本人娼婦も現れたと言われています。また、貿易業などを営む一部の裕福な中国人男性は、中国人女性が少なかったこともあり、マレー人女性と結婚し、ババ・ニョニャ文化が生まれた背景ともなりました。当時の中国人男性は裕福でなければ結婚できなかったのです。

 

20世紀に入ると、移住してくる女性が増えていきます。これは1920年代の好景気時に中国から女性や子どもが来たためです。インドからも女性が多く移住してきます。インド本土での貧困から脱出するためや不幸な生活からの逃避するためやって来るケースが多かったのですが、一部誘拐されて連れてこられた女性もいたようです。

 

女性たちは男性労働者がほとんどを占めるスズ鉱山やゴム農園でも働くようになりました。これは鉱山や農園以外で働く場所がなかったためとみられます。ただ、教育を十分に受けた中流階級以上の女性にはほとんど仕事がない社会でもあり、多くが専業主婦として人生を送っていました。

 

政治に目覚める女性たち

 

そんななかで、1920年代には華人の女性政治活動家が誕生しました。初の女性政治家となったのは陳璧君です。ペナンの富豪商人の家に生まれた彼女は1907年にペナンを訪れた汪兆銘(孫文の側近で、のちに国民党副総裁)と知り合い、清朝打倒を目指す政治団体、中国同盟会に参加し、マレー半島で政治活動に没頭します。

 

その後、彼女は孫文ともシンガポールで面会。1912年には汪兆銘と結婚した後は中国本土で積極的な政治活動を行いました。1944年に汪兆銘が名古屋で死去した際は遺体を引き取りに日本を訪れています。ただ、戦後は中国の国民政府に逮捕され、ペナンの地を踏むことなく死去しました。

 

彼女以外にもこの時代に女性の政治活動家が生まれました。1930年に設立された中国人中心のマラヤ共産党内では、女性の多くは看護婦やオペレーターといった職に就いていました。同党は婦人部もあり、ここには部長としてマレー人女性、シャムシア・ファケが就任、政治活動に加わりました。

 

このほかのマレー人女性では、1920年代にマレー学校教員協会を作ったザイノン・ムンシ・スレイマン氏がおり、女性教員向けに雑誌を発行するなど精力的に活動。戦後はジョホール州議会議員を経て、下院議員にも立候補して当選。女性議員3人のうちの1人となりました。

 

インド人女性の場合、1906年にペラ州タイピンで女性中心の社会支援団体インド人協会が設立され、インド人女性向けの身の上相談などをするなどの支援活動家にとどまり、政治への女性の参加はかなり後になってからです。

 

戦後の目覚ましい女性の活躍

 

戦後、独立した初の女性市民団体として「自覚する女性戦線」(AWAS)が1945年に創設されます。左翼系の団体で、1973年から福祉一般大臣を9年務めたアイシャ・ガニが初代会長に就任。このほかマラヤ共産党幹部だったシャムシア・ファケや、全マレーシア・イスラーム党(PAS)で20年にわたり婦人部長を務めたサキナー・ジュニドらが核となって女性の活動を支援していきました。

 

しかし、戦後に復帰した英国政府により活動停止に追い込まれ、1948年に解散。会員は2,000人ほどでしたが、男性ばかりの政治の世界でその後に積極的な活動をした女性を輩出した団体として歴史に刻まれています。

 

女性の社会進出の目安として女性の国会議員の数字がよく挙げられます。日本では1945年12月になって女性の国政参加が認められ、翌年の衆議院議員選挙では加藤シズエら39人の女性議員が誕生しました。

 

一方、マラヤ連邦では独立後初の下院議員選挙(1959年)で3人の女性議員が誕生します。女性議員の割合は、下院議員総数の3%弱にとどまり少数でしたが、1999年の総選挙以降は10%以上を確保してきました。

 

政権交代が起きた2018年の下院議員総選挙では、与野党32人の女性議員が当選し、過去最高の数字を記録。日本の現在(2019年3月現在)の衆議院の女性議員数は47人で、数字上はマレーシアの議員数より多いですが、全議員数の割合にすると、マレーシアは14.4%で世界ランキング141位。日本の衆議院は10.2%で165位と遅れをとり、先進国のなかでは最低ランクです。(2019年1月現在。Intern-Parliamentary Unionの調べ)

 

日本の初の女性閣僚は1960年の池田勇人内閣の中山マサ厚生大臣でした。マレーシアでの初の女性閣僚は1969年に福祉大臣として就任したファティマ・ビンティ・ハシム。その後は日本人の間でも有名で、以前のマハティール政権下で通産相などを務めたラフィダ・アジズがいます。彼女は20年あまりにわたって閣僚を務め、パワフルな女性としてマレーシア人の間でも有名です。その間も多くの女性閣僚が生まれ、省庁の間でも女性幹部が任命されてきました。

 

政治でも民間でも女性が活躍する時代へ

 

そして、政権交代後、アンワル・イブラヒムの妻ワン・アジザが女性初の副首相に就任。マハティール首相は総選挙直後早々にワン・アジザを副首相に任命することを表明し、大きなニュースとなりました。また、同首相は新政権で5人の女性を閣僚に任命し、一政権で過去最多の女性を起用しています。女性の政治進出といった観点からも画期的な出来事でした。

 

最後に、民間での女性雇用について付け加えます。世界経済フォーラムが毎年発表している『世界ジェンダー格差報告書2018』によると、男女格差指数でマレーシアは総合で149カ国中101位、日本は110位です。なかでも同一労働での男女賃金格差の順位では日本は45位で、マレーシアはなんと17位。企業の管理職の人数での男女差の幅は日本のほうが大きく、順位では129位だった一方、マレーシアは112位との結果が出ています。つまり、マレーシアのほうが日本よりも女性にとっては働きやすく昇進もしやすいといってもよく、こういった現象が政治に女性が多く起用されているのは無関係ではないといえます。

 

 

伊藤充臣■在馬歴14年目。マラヤ大学人文社会学科歴史学科で修士と博士号を10年がかりで取得。趣味は読書と語学。専門の東南アジアを極めるため、最近ではクメール語に注力している。

 

記事掲載日時:2019年03月21日 10:51