icon-plane 第38回 クアラルンプール・プドゥ地区の発展と刑務所

第38回 クアラルンプール・プドゥ地区の発展と刑務所

 

クアラルンプールの繁華街ブキビンタンに近いプドゥ地区。ここにかつてプドゥ刑務所がありました。プドゥ刑務所には100年以上の歴史がありますが、2012年までに取り壊され、跡地にモールやホテルなど複合施設が建設されています。今回はよく知られていないプドゥ地区と刑務所についてみてみましょう。

 

KLの発展にはプドゥは欠かせなかった

 

クアラルンプールは1880年、スランゴール王国の王都となりました。それまでの州都はクランでしたが、イギリスの植民地官吏である駐在理事官が遷都したのです。目的は、クアラルンプール近郊にあったスズ鉱山の管理だったともいわれています。

 

クアラルンプールはクランから流れるクラン川とゴンバック川が合流するところ、現在のマスジッド・ジャメ(Mesjid Jameh)周辺を中心に発展していきました。クアラルンプールの発展については以前にご紹介しましたので、詳細はそちらをご覧ください。

 

第8回・クアラルンプールの始まりと発展

第8回・クアラルンプールの始まりと発展

 

この合流地点の東に「マーケット広場」がありました。現在はDataran Medan Pasarと呼ばれているところです。1870年代当時の地図には、この市場の北側の通りから東にいくPudoh Streetが記載されています。PuduはもともとPudohとも綴られていました。Puduとはマレー語でパンノキ属の植物プダウのことを指し、当時このあたりにはプダウの木がたくさんあったのかもしれません。

 

さて、クアラルンプールは当初、小さな村が集まっているだけでしたが、中国人が住み始めてから、中心部から外れたところにプドゥ・ストリートができました。なぜでしょうか。

 

それはプドゥ地区にスズの鉱脈があったからです。クアラルンプール近郊のスズ鉱脈ではアンパン地区が有名ですが、実はプドゥにもあったのです。現在はその名残は残っていませんが、この付近に中国人らは村を作り、そこが「プドゥ村」となりました。

 

採取されたスズは街に運ばないとなりません。このため、プドゥ・ストリートがクアラルンプールの中心からプドゥ地区まで延びていたのです。ちなみに、プドゥ・ストリートの起点にチャイナタウンがあるのは偶然ではありません。中国人らはここに住み、プドゥなどから運ばれるスズの売買をしている商人も多かったのです。

 

刑務所内では死刑も執行されていた

 

さて、そのプドゥ・ストリートとインビ・ストリートの交差点にあるプドゥ刑務所は、中国人の墓地の跡に1891年から4年かけて建設されました。当初は「中央刑務所」と呼ばれ、3階建ての240室あり、当初の収容最大人数は600人でした。

 

各房は暗くて、小さな窓があるのみ。電気がない時代で、夜になると刑務所内はほとんど真っ暗であったようです。また、当初は敷地内に畑があり、ここで囚人たちが野菜を栽培していました。収穫された野菜は囚人の食事に使われ、一部はクアラルンプール市内でも販売されたのです。

 

刑務所の完成直後には所内でコレラ菌が発生し、囚人数百人が感染して死亡しました。汚い井戸を利用していたことが原因でした。
刑務所は当初、微罪で短期間に服役する囚人のみを収容していました。しかし、犯罪件数の増加に伴い、その後は重罪犯も収監することになったのです。これと関連してか、ムチ打ち刑も実施され始め、刑務所の門前で行われました。

 

第二次世界大戦中は日本軍が刑務所を管理し、政治犯として反日活動家らも収監しました。逆に戦後は日本軍兵が戦犯として同刑務所に収監されました。戦後間もなくしてイギリスがマレー半島に「復帰」しました。1947年、当時の政府当局は刑務所を管理していた日本軍兵4人に対し、栄養失調などで囚人640人を死に至らしめたとして起訴。うち1人が死刑、2人が禁固刑、1人が無罪の判決を受けました。

 

1948年以降は、マラヤ共産党の武装蜂起による非常事態宣言の発令もあり、多くの華人が逮捕され、プドゥ刑務所にも収監されました。この頃からプドゥ刑務所内で死刑囚の絞首刑も執行されたのです。

 

独立後の刑務所では人質事件があった

 

1957年のマレーシア独立後、刑務所はイギリスからマラヤ連邦に移管されました。

 

脱獄や刑務所内での乱闘などがたびたびニュースとなりましたが、市民を最も震え上がらせたのは1986年10月に起きた囚人6人による人質立てこもり事件。囚人らは健康診断のために訪れた医師ら2人を人質にとり、6日間立てこもりました。首謀者はシンガポール国籍で1984年に警察官を殺して殺人罪で服役していた者でした。

 

警察当局は何回にもわたる交渉を試みましたが失敗。犯人らは人質に刃物をちらつかせていましたが、ほとんど睡眠を取らず、食事の提供も拒んでいました。膠着状態が続くなか、発生から6日後に特殊部隊が突入。囚人らを逮捕し、人質2人を救出しました。このときの特殊部隊は一切銃を使用せずに突入し、けが人は出なかったのですが、これは当時のマハティール首相の指示だったとされています。ちなみに、立てこもった犯人らは3年後に死刑が執行されました。

 

1980年代までにはプドゥ刑務所の最大収容人数は2000人。しかし、実際の収容人数は6000人にも達し、老朽化と手狭であることから1996年に別の刑務所に移管したのです。
その後は博物館として利用されたりしましたが、2009年に政府は取り壊しを決定。2010年から徐々に解体を始め、2012年には門と一部壁以外は取り壊されました。

 

さて、この広大な土地はその後、不動産大手のUDAホールディングスが取得しました。その面積は19.4ヘクタールにも及びます。ここに現在、商業施設やオフィスビルディング、コンドミニアム、ホテルといった大規模な複合施設を建設中で、2020年12月には第1期工事が完了します。

 

また、商業施設として「三井ショッピングパーク ららぽーとクアラルンプール」が建設され、2021年にはオープンする予定。店舗数約300店舗を誇る、クアラルンプール市内でも大規模なモールとなります。

 

プドゥ地区にはまだ多くの昔ながらの住宅や商店が残っています。老舗のレストランや屋台もあったり、その雰囲気はおそらく独立以来あまり変わっていないのではないでしょうか。クアラルンプール市役所(DBKL)は市内の開発計画『2020年KLプラン』でプドゥ刑務所跡地とその周辺の再開発を計画に盛り込んでいますが、あの古きよき時代の雰囲気だけは壊さないでもらいたいものです。
 

 

 

 

伊藤充臣■在馬歴14年目。マラヤ大学人文社会学科歴史学科で修士と博士号を10年がかりで取得。趣味は読書と語学。専門の東南アジアを極めるため、最近ではクメール語に注力している。

 

記事掲載日時:2019年04月16日 22:06