icon-plane 第43回 マレー人たちは本当に働かないのか?

第43回 マレー人たちは本当に働かないのか?

 

今回はマレー人たちの労働観についてです。マレーシアで働いていると、「ローカルは働かないなあ」といらだつ日本のビジネスマンによく出会います。確かにそう思われるところもあるのですが、ちょっと待ってください。歴史的な観点から観察すると、そう簡単にはいえないのです。

 

多民族社会の労働観

 

 これまで何回かマレーシアが多民族社会になった歴史的背景を書いてきました。マレーシアの人たちの労働観を考えるには、まずは、この多民族社会という背景を理解しないとなりません。
 ご存知のとおり、マレーシアにはさまざまな民族がいます。マレー人、華人、インド人が三大民族として人口の大部分を占めますが、さらに主に山の中に住むオランアスリ(先住民)やサバ州、サラワク州に住む多くの少数民族もいます。
 こういった多くの民族が暮らす一つの国のなかで、一つの労働観が共有されているわけではないのです。そこにはさまざまな言語的文化的背景も絡み、各民族がそれぞれの労働観をもっているといっていいでしょう。

 

自給自足が基本だったマレー人たち

 

 歴史的にみると、マレー人の生活は自給自足が基本でした。
 マレー人はジャングルのなかの川沿いまたは海岸の集落に住んでいました。密林のなかで道路を作るのは容易ではなく、必然的に川が「天然の道路」となって、各村などとつながっていたのです。
 各村ではコメや野菜を栽培し、もちろん隣の村のものがほしい場合は物々交換などで品物を得ることもありましたし、余剰分は売ることもありました。自然になる果物が取れ、川では魚が釣れる。自分たちだけが食べられる分だけのコメや野菜を作って生活をしていたため、マレー人はのんびりとした労働観となっていたのでしょう。
 また、イスラーム教の教えが行き届いていたためか、各村の治安はよく、マレー人が犯罪を起こすことは稀と19世紀にマレー半島を旅したイギリスの旅行家イザベラ・バードは記録しています。マレー人の間にはGotong Royongという考えがあり、困っていれば助けるという精神があります。このため、当時は食べるものに困っても経済的にも助けて合ってきたのでしょう。自給自足の生活であったことが、いわば治安の良さにつながっていたとも言えます。
 こうした生活をしてきた中でイギリスの植民地体制がマレー半島に19世紀に確立していきます。
 植民地体制は、政治的経済的支配をして本国に従属させる仕組みです。本国を潤すためにはマレー半島の経済を繁栄させないとなりません。マレー半島ではコーヒーなどの農作物をイギリス人らが植え込んできましたが、イギリスが積極的に注力したのは、昔から採れたスズの採掘と植林したゴムの生産でした。

 

植民地で労働者を海外から連れてくることに

 

 しかし、スズの採掘とゴムの栽培には大量の人手がいります。
 植民地政府はもともとマレー人をこれらの労働者として雇う計画をしていたようです。イギリス人官吏は、賃金を設定して雇用を図ろうとしていましたが、官吏の一部は「賃金を高くしてもマレー人は働かない」と記録しています。
 ただ、これを一方的に「マレー人は怠慢」とすることはできません。もともと村で自給自足ができ、わざわざ過酷な労働を強いてまで賃金をもらうことに抵抗があったのではないでしょうか。日本人だって、3Kと言われる仕事をあまりしたがらないのと同じことなのです。
 こういった中でイギリス植民地政府は「マレー人が働かない」ためとの理由で、スズとゴムのために大量の中国人とインド人を投入していったのです。その数は年間数万人から数十万人に達し、マレー半島は多民族が多く住むところになっていきました。1940年代に入ると中国人の人口はマレー人を超えていました。
 中国人やインド人は本国での絶望感から出稼ぎに来た人たちが多いのです。彼らはほとんど無一文でした。特に中国人は渡航費用を、今で言う人材紹介会社や雇用主から借りて、将来の労働を担保にしてまでやってきたのです。まさに「背水の陣」。懸命に働き、20世紀に入ると財を築きあげていく華人やインド人も増えていき、家族ができ、そのまま定住する人たちも多くなっていきます。その子孫が現在も住んでいるわけですが、こういった歴史的な背景もあり、その子孫でもある華人やインド人の労働観はマレー人と異なるといってもいいでしょう。
 しかし、植民地体制になり、マレー人は自給自足生活をしていた一方で、一部はゴム・プランテーションなどで働く人も出てきました。世界経済の波に呑み込まれ、移民らの流入も相まって、それまでのマレー人の労働観は少しずつ変化していったようです。

 

独立後も収入は上がらず

 

 1957年にマラヤ連邦が独立すると、国内の民族間の収入格差はさらに大きくなっていきました。マレー人は農業のほか、自分でビジネスをする人もいましたが、それでも特に商業に特化する華人との収入差は広がる一方でした。
 この経済格差が要因の一つとして発生したのが、1969年の人種暴動です。政府はマレー人の収入拡大を目指して、新経済政策(いわゆるブミプトラ優遇政策)を1970年に導入したのです。その後、国内の経済を底上げするため、政府は工業化も図っていきました。
 あまり知られていないのですが、ブミプトラ優遇政策導入後の1974年、ゴム価格の下落で、クダ州バリンのマレー人農民らが飢餓状態に陥りました。農民はいわば一揆を起こして政府への支援を求めたのですが、これはマレー人社会にとっては衝撃的な出来事だったのです。
 ちなみに、この時に積極的に政府に抗議デモに関わったのがマレーシア・イスラーム青年運動 (ABIM)代表のアンワル・イブラヒム氏で、このとき扇動罪で初めて逮捕されたのでした。
 政府のブミプトラ優遇政策は、華人やインド人からは「不公平」として批判の対象とされていますが、マレー人の貧困率が下がっていった意味では成功したといっていいでしょう。1970年時点では総人口の52%が貧困層で、なかでもマレー人のうち約65%が貧しい生活をしていました。これが20年後の1990年には貧困層は人口の16.5%に激減し、マレー人の貧困層も24%にまで下がったのです。さらに、2018年の国民全体の貧困率は3.8%にまで減りました。(注)
 政府による大規模な後押しで貧困率を減らしたことは、言うなれば、マレー人の労働観にも変化が訪れた結果とも言えるのではないでしょうか。国が工業化を推し進め、日本など多くの製造業の工場が稼働するなかで、それまで農業で営んでいたマレー人たちが今度は工場で決められた勤務時間で働き、そして収入をもらったからです。

 

ネットの普及で労働観がさらに変化?

 

 マハティール氏は1991年、2020年に先進国入りを目指すという「ヴィジョン2020」を打ち出しました。これもマレー人の労働観を徐々に変えていったとも言っていいでしょう。すでにその目標の年は来年に迫っていますが、ここ数年の彼らの動きを見ていると、10年前と比べてもしっかりと働くようになっています。この目標が労働意識の変化をもたらしたのかもしれません。
 マレー人らの労働観がさらに変わっていったのは、おそらくネットの普及もあります。ネットが普及され始めた2000年から2005年あたりはまだのんびりとしていましたが、ここ数年になって、社内や店内にカメラが設置されたり、客が各店舗をネット上で評価したりしてくると、マレー人の勤務態度は変わっていきました。特に客からの評価は敏感になっているようで、最近では特に政府系企業のカスタマーセンターに苦情を申し立ててもしっかりと対応するところが増えています。2003年に退任したマハティール氏は、いち早くネットの普及に力を入れていましたが、もしかすると、こういったシステムが確立することを見越して、マレー人の労働観を変えさせる意味もあったのかもしれません。

 

 さて、最後に一言。日本人の感覚と、マレー人の労働観はかけ離れています。マレー人は家族と仕事を両立させており、家族を優先にする人もいます。また、暑い国であるため、肉体的にハードな仕事はなかなか難しいという環境の事情もあるので、頭ごなしに彼らを咎めてはなりません。「郷に言っては郷に従え」です。日本的な働き方よりもマレー人的な働き方でゆったりと仕事をしてみましょう。

 

(注)貧困層の定義については政治家や専門家の間でさまざまな議論があります。政治家の間では「貧困ラインが低すぎる」と主張する人もいます。 
 

 

伊藤充臣■在馬歴14年目。マラヤ大学人文社会学科歴史学科で修士と博士号を10年がかりで取得。趣味は読書と語学。専門の東南アジアを極めるため、最近ではクメール語に注力している。

 

記事掲載日時:2019年07月14日 12:26