icon-plane 第44回 いつになったら麻薬はなくなるのか

第44回 いつになったら麻薬はなくなるのか

 

マレーシア国家警察は先ごろ、2019年7月まで麻薬関連で逮捕された容疑者数が9万5000人を超えたことを発表しました。うち約4万5000人が麻薬使用者だったということです。ここ数カ月の間でも麻薬で逮捕されるニュースが多く、年々使用者は増えている感があります。今回のトピックは麻薬です。マレーシアでは歴史的にどういった経緯があるのでしょうか。

 

かつてアヘンが麻薬の主流だった

 

第二次世界大戦前までは麻薬といったらアヘンでした。
ケシの果実から取れるアヘンはもともと現在の中東が原産。5世紀以降にイスラム商人が医薬品としてヨーロッパやインド、中国など各地にもたらしたと言われています。

 

マレー半島にも17世紀までにはオランダがアヘンを持ち込んでいたようで、タバコにアヘンを混ぜて吸っているマレー人の姿が描かれています。また、18世紀にもスランゴールやペラ、トレンガヌなどにアヘン中毒者がいたことも記録されています。

 

イギリスの東インド会社がアジアでの貿易を始め、18世紀半ばにはアヘン貿易も展開していきました。イギリスがアヘン貿易に力を入れた背景には、当時の中国の清王朝から茶や陶磁器などを大量に輸入したものの、イギリスから清に輸出する物品は限られており、輸入超過が発生していたことがありました。資本を貯めるため、当時使われていた銀の流出の抑制政策の一環として、インドからアヘンを清に流して超過分を相殺していたのです。

 

19世紀中頃に清朝がアヘンのまん延を憂慮し、イギリス人らがもっていたアヘンを没収して全面禁輸措置を講じると、イギリスは武力で訴えました。これが有名なアヘン戦争です。この結果、香港は割譲されたのです。つまり、中国大陸にアヘンがまん延していかなければ、香港はイギリス領とはならなかったと言ってもいいでしょう。

 

 

アヘンを容認したイギリス植民地の功罪

 

イギリスが19世紀にマレー半島に進出し始め、アヘンはまん延していきました。
1819年にシンガポールが自由港として建設されると、ペナンとともにインドから中国への中継地点として貿易が盛んになりました。物品はアヘンも含み、港周辺だけでなく、マレー半島内陸にまで徐々に広がっていったのです。

 

マレー半島には当初、中国人が胡椒やガンビールを栽培するためやってきました。1870年代以降にはスズ鉱山労働者として年間数万人以上が来ました。いずれの仕事も、山奥での炎天下での作業で、妻子も娯楽もない環境です。そのなかで労働者たちはアヘンに手を出していきました。
スズ鉱山労働は過酷な環境で、死亡率は5割以上。病気になった労働者はアヘンを「くすり」としても利用していたのです。当時の中国人労働者のうち10人に8人はアヘンを常用していたとの記録も残っています。 

 

アヘンは中毒性が強いため一度手にするとやめられなくなります。このため、アヘン産業は多くの利益が出ました。農業や鉱業に投資した中国人らは、アヘン販売も同時に行い、労働者を「薬漬け」にして巨額の富を得ていました。ちなみに、アヘン販売店は銀行の役割も担っており、20世紀以降に東南アジアで銀行を開設した起業家の多くが、元アヘン業者でもあったのは偶然ではありません。

 

そして、イギリス植民地政府が利益が上がるこの産業に目をつけないはずがありませんでした。海峡植民地政府は、1910年にはアヘンへの課税や販売権制度などを取り入れ、歳入を上げていったのです。海峡植民地ではそれぞれ総歳入のうち50%以上がアヘン関連からで、官吏らは吸ってはいないものの、アヘンなしでは植民地経営ができない状況に陥りました。
 

 

戦後になって禁止措置を出した

 

19世紀の植民地政府官吏は、アヘンが中毒性が強いことは十分認識していたようです。シンガポールを「発見」したラッフルズは、歳入増加を目的としてアヘンを販売することに反対していたとされます。

 

実は、19世紀初めからアヘン撲滅運動が起こり、1874年にはイギリスで「アヘン貿易廃止協会」が設立されています。特にインドと中国間のアヘン貿易の廃止運動が盛り上がりました。

 

海峡植民地政府にも廃止の圧力はかかったのですが、アヘンを禁止すると「密輸が横行する」「中国人が離れていく」などとの理由で禁止措置を拒否しました。ただ、これは建前で本音はアヘンなしでは経営ができなかったためです。

 

20世紀に入り、1906年にアメリカがフィリピンでのアヘン取引を全面禁止します。これに伴い、イギリス政府も考えを改め、インドと中国間のアヘン貿易の取引量を年間10%ずつ減らし、10年以内に取引自体を廃止するとしましたが、最終的には反故にされました。また、この時期にはペナンやクアラルンプールでもアヘン撲滅運動が盛り上がっていました。ちなみに、クアラルンプールではイスラム寺院ムスジッド・ジャメ近くに多くのアヘン販売所がありました。

 

1925年には麻薬に関するジュネーブ会議がイギリス政府に対してアヘンの販売禁止措置を求めましたが、ほとんど効果はありませんでした。マレー連合州でのアヘン利用者は1929年までに5万人を声、1941年に7万5000人を超えていたといいます。

 

国際的なアヘン撲滅運動はその後も続きます。イギリス政府は、日本軍のマレー半島侵略後、1943年になってやっとアヘン取引の全面禁止措置を出しました。戦後にイギリスはマレー半島に復帰しましたが、その頃までにはアヘンの姿はほとんどなくなっていったのです。

 

麻薬使用者増加で死刑を導入

 

戦後1952年、当時のイギリス植民地政府は、危険薬物法を制定しました。アヘンなど危険薬物を取り締まる法律だったのですが、高齢の華人を中心に、50年代後半までまだアヘンを吸っている人はいたようです。

 

そして、独立したマラヤ連邦政府は政治的安定に腐心していたため、麻薬関連の政策には手つかず。ベトナム戦争が激化していくと、60年代後半ごろからマレーシアにアメリカ軍兵士を通じて麻薬が入り込んできます。

 

彼らはつかの間の休息でマレーシアを訪れていたのですが、知り合った若者らに大麻を渡すなどし、大麻常習者がこの頃から増え始めます。1969年の総選挙後に人種暴動が発生し、議会は1971年まで凍結されました。政治的混乱で麻薬取り締まりまで至らず、本格的に政府が取り締まりを始めたのは1973年になったからなのです。

 

1975年には危険薬物法に麻薬取引罪を加えて改正しましたが、80年代に入ると麻薬取引が増加し、1981年に発足したマハティール政権は「国家的脅威」として死刑を導入したのです。

 

現在は麻薬売買や所持、使用で最高刑として死刑が科されます。2018年10月時点で麻薬関連で死刑判決を受けたのは1200人あまり。そのうちの一人は邦人女性です。

 

しかし、死刑については「ほとんど抑制効果にはなっていない」と疑問視する声もあります。世界的な死刑制度の廃止の流れも受けてか、昨年の政権交代で与党・希望同盟は死刑制度をなくすとの方針を打ち出しており、近く法案が提出される予定です。

 

また、保健省は6月、少量の麻薬所持や使用者に対しては非犯罪化する方針も打ち出し、麻薬常習者へは治療を主眼に置く旨も発表。家庭環境や貧困も深く絡んでいるためとしています。ただ、麻薬を合法化することはないとも断言しています。

 

内務省麻薬取締局によると、2018年の麻薬中毒者数は2万5267人に達し、そのうちマレー人が80%超としています。また、密輸の麻薬が流れるタイ国境のクランタン州で、中毒者数は最多を記録していることも明らかになりました。さらに、昨年10月には全国178カ所が麻薬のまん延地区と指定、なかでもペラ州は最も多い30地区で麻薬がまん延しているとしています。

 

マレーシアでの状況はかなり深刻と思われます。中学生や高校生といった麻薬使用者の低年齢化も指摘されており、政府は今後も効果ある措置を取っていく必要があります。

 

なお、欧米の一部の国では大麻を解禁し、合法化しているところもありますが、マレーシアはイスラム教が国教であるため、今後もそうはならないでしょう。

 

 

伊藤充臣■在馬歴14年目。マラヤ大学人文社会学科歴史学科で修士と博士号を10年がかりで取得。趣味は読書と語学。専門の東南アジアを極めるため、最近ではクメール語に注力している。

 

記事掲載日時:2019年07月26日 15:39