icon-plane 第15回 与党大連立政党、国民戦線はどのように誕生したのか

第15回 与党大連立政党、国民戦線はどのように誕生したのか

 

 


マレーシアでは下院選挙が近づいています。前回に引き続きマレーシアの政党の話です。マレーシアにいれば、自ずと「バリサン・ナショナル」またはBNという言葉を聞くことでしょう。日本語で「国民戦線」と訳していますが、果してどういった組織なのでしょうか。

 

連盟党の躍進が独立に繋がった

 

「国民戦線」はいわば与党の大連立組織で一つの政党ですが、前身は独立以前からあった「連盟党」になります。

 

周知の通り、マレーシアはマレー人や華人、インド人などが共存する多民族国家です。各民族は強いアイデンティティーを保持し、互いの融合や同化が難しい。そこで政治的にどうするかを当時の政治家らは考えました。

 

その起点となったのは1952年に実施されたクアラルンプール市議会選挙でしょう。これはマラヤ連邦の自治化の地ならし的な意味もあり、大変重要な選挙でした。マレー人の政党、統一マレー国民組織(UMNO)は将来的な独立には華人を無視できないとの認識が広まり、1949年にできたマラヤ華人協会(MCA)と連合を組んで選挙に打って出ました。市議会選挙ではこの連合が奏功して過半数を制しました。これをきっかけにその後の地方都市の選挙でも互いに協力しあい、次々と地方自治体の議会の過半数を占めていきます。

 

1954年にはインド人らがマラヤ・インド人会議(MIC)を設立。MICは上記2政党の連合に加わり、「連盟党」が結成されました。民族別の政党が連合するという体制が「規定化」されていったのです。これがBNの元となったとも言っていいでしょう。

 

 1955年に行われたマラヤ連邦の立法評議会議員選挙では3党連合の連盟党が圧勝。力を得た同党は英国と独立交渉を始めて1957年に独立を獲得したのです。

 

連盟党は1959年の独立後最初の連邦議会下院議員選挙、1964年のマレーシア結成後初めての同選挙でも勝利を収め、民族別の政党が連盟を組むことで政治的に安泰したかに見えました。

 

しかし、1969年の下院総選挙の結果で、連盟党は89議席から66議席(得票率45.9%)に激減して、野党勢力が躍進。同時に実施された州議会選挙ではクランタンやペナンで野党が実権を握り、その他数州でも野党が大きく勢力を伸ばしたのです。

 

5月13日事件がきっかけでブミプトラ優遇政策へ

 

総選挙後の5月12~13日には、与党のマレー人は華人への力を誇示するため、また野党の華人は勝利を祝うためにクアラルンプールで行進しました。13日には両者が激しく衝突し、数百人が死亡。これを機に連盟党で形成する連邦政府はただちに非常事態宣言を発令したのです。上下院議会及び州議会の停止、憲法の凍結を連邦政府は下し、ラザク副首相のもとで国家運営評議会を作って全権を掌握しました。

 

政府はその後、この事件の原因の一つとして各民族の経済格差をあげ、特にマレー人の経済を底上げするいわゆる「ブミプトラ優遇政策」を1971年から実施します。

 

この政策を円滑に実施していくには、与党の基盤強化が必要となります。そこで同副首相は、サラワク州やサバ州の地域政党やペナン州の地域政党、人民運動党(グラカン)やペラ州の人民進歩党に加え、汎マレーシア・イスラーム党(PAS)といった連盟党には所属しなかったマレー人や華人、インド人の政党を取り込んで連合政党を1973年に結成しました。これが「国民戦線」なのです。

 

国民戦線は11政党の連合政党として始動。停止されていた議会は再開しましたが、下院では華人系の民主行動党(DAP)など小政党のみが野党という体制となったのです。

 

そして、1974年には華人が多いスランゴール州の野党勢力を抑えるため、クアラルンプールを同州から分離させて連邦直轄区に変更するなど連邦政府は与党に有利な改変を行ったのです。そして、1974年8月の総選挙ではBNが154議席中135議席を獲得して圧倒的な勝利。州議会もすべてBNの手に渡り、安定多数となりました。

 

しかし、1970年に就任したラザク首相が1976年1月にロンドンで急死すると、BNに異変が起きます。首相を継いだフセイン首相はブミプトラ優遇政策も引き継ぎましたが、1977年にはクランタン州の州首相任命をめぐってUMNOと対立したPASがBNを離脱し、野党に下野します。

 

その後の下院選ではBNは平均60%の得票率を得て、安定多数を維持しています。2004年には約64%の得票率を獲得して、議会の議席占有率は90.4%にまで達しました。しかし、2008年の下院選では得票率がついに50%にまで激減し、野党が躍進しました。これがきっかけで当時のバダウィ首相はのちに辞任に追い込まれます。

 

2013年にも下院選挙が実施されました。この選挙は史上最高の523万人あまりが投票しましたが、BNは史上最低の約47%にまで得票率は下がりました。議席では過半数は制したものの、国民がBN政権に飽きを感じてきたとも受け止められています。2004年以降、BNの力は相対的に下がってきているのです。

 

そして、今年は下院総選挙の年です。不人気なナジブ政権は昨年からさまざまな国民向けの施策を実施してきていますが、果してどういう結果が出るのか。2013年の総選挙よりも得票率が低いと責任問題にも発展するかもしれません。

 

ちなみに、BNは現在13政党で構成されています。

 

 

伊藤充臣■在馬12年目。マラヤ大学の歴史学科で修士号と博士号をだらだらと10年がかりで取得。趣味は読書と語学勉強。最近は日本の小説に読みふけっていると同時にミャンマー語の勉強も始めた。

 

記事掲載日時:2018年02月19日 23:43