icon-plane 第32回 スルタンとマレーシア国王という職業

第32回 スルタンとマレーシア国王という職業

 

マレーシアの国王ムハンマド5世が退位することを発表し、話題になっています。今回はマラヤ大学歴史学科でPh.Dを取得した伊藤さんに、マレーシアの王室の歴史について教えてもらいましょう。

 

あけましておめでとうございます。昨年はご愛読のほどありがとうございました。今年もよろしくお願い申し上げます。

 

さて、王宮事務局は1月6日、2016年12月に就任したマレーシアの国王ムハンマド5世が退位することを発表しました。1957年の独立に国王制度が設置されてから初めての退位となります。突然のことだったので、政界を驚かせていますが、さて、あまり聞き慣れないマレーシア国王について今回は知っておきましょう。

 

マレー半島でのスルタンの出現

 

マレーシア国王は、北からペルリス、クダ、クランタン、トレンガヌ、パハン、ペラ、スランゴール、ヌグリ・スンビラン、ジョホールの9州にいるスルタンから5年に一度選ばれます。統治者会議がその際に開かれ、スルタン9人の投票で国王が選ばれるのです。

 

そもそもスルタンとは何でしょうか。イスラム共同体の最高権力者カリフ(キリスト教でいうとローマ法王の地位)から特定の地域の政治を司ることを承認された称号です。スルタンに任命されるとその子どもたちが代々スルタン称号を受け継ぎます(昔は女性のスルタンもいました)。ただ、カリフは現在存在しないので、今後新たなスルタンが任命されることはないでしょう。

 

スルタンは、イスラム教徒が多い地域に存在します。世界最多のイスラム教徒を誇るインドネシアにはかつて多くのスルタンがいました。しかし現在では、ジョグジャカルタ特別州知事として権力のあるスルタンがいるのみで、そのほかは昔のスルタンの子孫がソロやカリマンタン島の一部に残っています。

 

フィリピン南部やタイ南部にもかつてスルタンがいました。珍しいところでは中国・雲南省や広東省にもかつてスルタンが存在しました。

 

さて、マレー半島の場合、スルタンが出現したのは、1400年ごろに建国されたマラッカ王国時代です。マラッカ王国は交易で栄え、特に中東からインド経由でイスラム商人たちが多く来ました。マラッカを拠点にのちに現在のインドネシアにイスラム教が伝播していったと言われています。マラッカ王国の王もイスラム教徒となり、スルタンの称号を使い始めたのは5代目の王、ムザッファール・シャーだったようです。

 

1511年にポルトガルがマラッカを占領すると、マラッカ・スルタンはスマトラ島に逃げました。しかし彼が、のちにマレー半島南部を本拠地にして王国を作りました。それがジョホール王国です。現在のジョホール・スルタンはマラッカ・スルタンの直系とされており、9人のスルタンのなかでも最も権威があります。また、現在のマラッカ州にスルタンがいないのはこのためです。

 

マラッカ・スルタンを自称する人がしばしば出現してニュースになることもありますが、真偽のほどはわかりません。日本で戦前に南朝の血を引くと称して現れた熊沢天皇を彷彿させます。

 

給料制となったスルタン

スルタンはその後、マレー半島各地に出てきました。スルタンたちの王国はそれぞれ繁栄し、栄華を極めていたのですが、イギリスがマレー半島に入ってくると徐々にその力は落ちていきます。

 

1786年にイギリスの商人、フランシス・ライトが現在のペナン島を占領します。ここはもともとクダ・スルタンの領地でした。イギリスははじめ、この島を賃貸しましたが、その金額が反故にされたことからクダ・スルタンは激怒。イギリスと軍事衝突となりましたが、イギリス軍が勝利しました。スルタンは何度か領地奪還を行いましたが失敗。イギリスは防衛のためペナン島の対岸の領地も確保していきます。ここを「ウェレズレー州」と名付け、1874年までに現在のペナン州の形となります。

 

イギリスのラッフルズは、1819年にシンガポール島に上陸し、その後に貿易港として発展させていったことは有名です。この島もジョホール・スルタンの領地でしたが、イギリスが割譲させたのでした。

 

イギリスは19世紀後半からマレー半島の各王国の政治にも介入していきます。これは錫やゴムの利権を得るための植民地経営のためでした。駐在理事官というスルタンの目付役をまず置き、スルタンを飼いならしていきました。徐々に利権を奪われていったスルタンはイギリスから給与をもらうことになります。ここにマレー半島で初めてローカルに月給制が導入されたことにもなるでしょう。イギリスの植民地下でスルタンはイスラム教に関連する事柄以外には口出しできなくなりました。

 

イギリスから雇われている形となったスルタンは戦後、ますます形式化されます。1946年にスルタンの権限が大幅に縮小され、移民に対しても平等な市民権を与えた「マラヤ連合」にマレー人の代表であったスルタンらが同意したため、それまで特権的な立場にいたマレー人民衆はスルタンに対しても怒りを爆発。その結果、当時のジョホール首相ダトー・オンが1946年に統一マレー人国民組織(UMNO)を創設したのです。それまでは各スルタンの意向が絶対として統治されてきましたが、UMNOはマレー人大衆の意見を集約する組織となりました。イギリスに迎合したスルタンたちは厳しく批判されたあと、ますます象徴としての存在となり、マレー人大衆がスルタンに代わって力をもったのです。

 

独立後に設置されたマレーシア国王

 

1957年にマラヤ連邦は独立し、初代国王にはヌグリ・スンビラン州のスルタン・アブドゥル・ラーマンが就任しました。現在、マレーシアの紙幣に掲載されている人物ですが、初代首相と同じ名前なので混乱しないでください。

 

さて、国王の設置についてですが、こちらは連邦制度と関連しています。マラヤ連邦は各地のスルタンが治める国(マレー語ではNegriといいます)の集合体となりました。各地のスルタンが全員就任できるようにするため、5年任期の互選輪番制とすることで、連邦をまとめるための権威付けとして設置されたのでした。投票により決められるのですが、実質は輪番制です。1957年時点で各スルタンの在位期間により順番が決められ、ヌグリ・スンビラン、スランゴール、ペルリス、トレンガヌ、クダ、クランタン、パハン、ジョホール、ペラの順です。原則はこの順ですが、辞退などもあるためにずれることがあります。ムハンマド5世はクランタンのスルタンであるため、次の国王はパハン州のスルタンになる予定です。

 

スルタンからなる統治者会議でははじめ、スルタンのなかで最も権威のあるジョホール・スルタンが初代国王候補となりましたが、このスルタンは高齢を理由に辞退。第2候補のパハン・スルタンも断ったため、ヌグリ・スンビランのスルタンが国王となったのでした。

 

面白いことに、この原型となったのはヌグリ・スンビラン(日本語でいうと九州)の制度でもありました。詳しくは割愛しますが、かつてスマトラ島のミナンカバウ族の植民地であったこの王国は、王国内の首長から合議でスルタンを決めていました。また、ペラ王国ではスルタンを輪番で決めていたことから、この制度も加味して国王就任制度が決められることになったのです。

 

 
ちなみに、あまり知られていませんが、国王の下には副王がおり、副王も互選で選ばれます。ムハンマド5世は昨年11月、副王のペラ州のスルタン・ナズリンに国王代理を命じていました。

 

ムハンマド5世が国王を辞任した理由は定かではありません。氏はマハティール氏を嫌っているとも言われており、昨年5月の政権交代時に首相指名を渋ったとも一部で報じられました。今回の辞任はもしかすると政治的な意味合いもあるのかもしれません。
 

 

 

伊藤充臣■在馬歴13年目。マラヤ大学人文社会学科歴史学科で修士と博士号を10年がかりで取得。趣味は読書と語学。専門の東南アジアを極めるため、最近ではクメール語に注力している。

 

 

記事掲載日時:2019年01月10日 00:17