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多様化の中のコンフリクト・マネジメント

 

今回は「コンフリクト・マネジメント」つまり争いの収め方についての話です。日本風の「喧嘩両成敗」では、多様化する社会での争いごとをマネジメントして行くのは難しい。では、多様性ある社会で必要なコンフリクト・マネジメントとはどんなものでしょうか。

 

「喧嘩両成敗」はフェアじゃない

 

昔、米国で暮らしていたとき、長男はアメリカの小学校に2年ほど通っていた。日本に帰国して、長男は日本の公立小学校に通い始めた。幸いスポーツ好きで明るい性格だった彼は、アメリカでも日本でもすぐに馴染むことができたが、ある日、
「オレ、日本の先生きらい、納得いかない」
と話した。

 

事情を聞いてみると、学校でクラスメートと諍いがあったらしい。息子の言い分では、「相手が一方的に悪い」という。だが、息子が怒っていたのはそのクラスメートというよりは、むしろ先生に対してだった。

 

「だってフェアじゃないんだよ。先生は、オレたちがケンカした理由もなにも聞かずに、ケンカはいけない。仲良くしなさい、っていって握手させようとしたんだ」

 

「このことについては、オレは絶対に悪くない、相手が悪いと思う。ちゃんと理由も証拠もある。先生はオレがそういっても、まったく話を聞かずに、とにかく仲良くしなさい、しか言わないんだ。あんな奴と仲良くするなんて、オレは無理だ」

 

「アメリカだったら、先生はオレの話と相手の話をまず聞く。相手だって言いたいことあるかもしれないからね。そのうえで、先生の判断をオレと相手に言って、どちらにどんなペナルティを課すかを決める。そして、オレと相手がそれに納得するかを聞くんだよ。もし納得しなかったら、納得するまで話し合う。それならばオレだって相手や先生のいうことを聞こうとするよ。で、お互い納得したら、そこで初めて握手するんだ」

 

「コンフリクトマネジメント」が重要になる現代社会

 

クラスメートとの諍いについては、息子の言い分しか聞いていないので、本当に一方的に相手が悪いのかどうか、判断はつきかねたが、少なくとも仲裁役の先生への不満については筆者も理解し、同意できた。

 

そしてこれは、筆者自身も感じていたことだ。アメリカのように、多様な価値観の混在する国では、コンフリクトマネジメントが重要になる。ダイバーシティのある現代社会では、どんなに気を付けていても摩擦や諍いは起こる。それを収めるための社会的スキルが必要となるのだ。

 

少なくとも筆者の経験では、多様な価値観での仲裁の基本になるのは、双方の言い分を十分に聞いた上でのフェア・ジャッジメントだ。息子のアメリカでの担任の先生がまさにやっていたことである。特に、教育現場で先生が介入するのは、生徒にコンフリクトマネジメントのやり方を教えるという役割もある。それに対し、日本の先生の方法は、いわば「臭いものに蓋」と同じで、問題の根本解決にならない。

 

筆者は現在、勤務している大学で、大学院プログラムの研究科長の任についている。博士課程の大学院教育の責任者である。ここで最も頻繁に起こる問題は、学生と指導教員との間の問題だ。学生からは、指導教員が無理難題ばかり押し付けてくる、大学院での研究内容とは違う仕事を押し付ける、人間的に卑劣、など様々なクレームが来る。一方で、指導教員の言い分は、学生の方にやる気がない、博士課程プログラムを舐めている、いくら論文指導しても全く修正をしてこない、など、これもまたさまざまだ。

 

そして、これまで扱ってきたほとんどのケースは、指導教員にも学生にも決定的な非があるようなものではなかった。つまり、彼らはお互いに一生懸命自分の仕事を全うしようとする意図はあったが、コミュニケーションの仕方が良くなかったり、誤解があったり、言いたいことが言えなくてフラストレーションがたまった末の問題だったりした。

 

そんな場合でも、お互いの信頼が壊れてしまえば、修復は難しい。結局多くの場合、新しい指導教員を着けることになる。ただ、同じ問題が起こらないように、コミュニケーションの仕方に気を付けるよう、できるだけ念入りに双方に指導しなくてならない。

 

相手に対して悪意があれば、やめてもらうこともある

 

筆者の勤務するビジネススクールは、教員だけで60人以上いるが、その内訳は実に多様だ。マレーシア人は当然として、オーストラリアに本校があるため、オーストラリア人もいるし、イギリス人、カナダ人、インドネシア人、バングラディシュ人、中国人に加え、筆者のような日本人もいる。こんな多国籍のスタッフでは、コンフリクトは、なあなあで収めることはできない。放っておくと、必ず炎上する。

 

だから、早い段階で仲裁に入り、火種を拡げないようにしなくてはならない。研究科長として仕事を始めてから、この点については、経験を通してずいぶんと勉強にさせてもらったと思う。

 

対人間のコンフリクトマネジメントで重要なのは、相手に対して悪意があったかという「意図」の分析だ。もし悪意があって、意図的に誰かに不利益をもたらしたのなら、その人物は基本的には組織から出ていってもらうか、組織からは距離を置いてもらわざるをえない。だが、意図的せず問題が起こったのならば、ほとんどがコミュニケーション能力の問題だ。そして残念ながら、筆者も含めて、大学教員というのはコミュニケーション下手が多く、誤解されやすい。

 

筆者の直面するコンフリクトマネジメントは、間違ったコミュニケーションにより、こんがらがった人間関係を解きほぐす作業がほとんどだ。そして、「こういうコミュニケーションをしていたら、人間関係がこんがらがりますよ」ということを、指導教員と学生に学習してもらうことが大切だ。

 

「結果としての和」に重きをおく日本風のやり方の問題点

 

これは、筆者の勤める大学組織だけでなく、どの組織でもよく起こっていることである。それが日本の日本人だけのグループで起こるのと、多様性をもつ集団で起こるのとでは、効果的な解決法はやはり違うのだと思う。

 

コンフリクトの原因よりも、「結果としての和」に重きを置くのが、先述の日本の先生のやり方だ。これは一か所に同じ顔触れが長くいるような集団にはある程度効力を持つ。だが、マレーシアやアメリカのように、多様かつ流動性の高い場合では、その場でのフェアジャッジメントがなくては、決して問題は解決しないのだ。

 

冒頭の筆者の息子の例では、その後先生への不信が募った息子は、学校で行う何事につけてもやる気をなくしていってしまった。「先生は結局オレのいうことなど聞いてくれない」という不信を持ってしまったのだ。その後、幸いにも、担任が変わったり、良いクラスメートに恵まれて、元に戻ったが、先生のフェアな仲裁は、その後の子供のヤル気にも影響することを見せつけられた。

 

これからのグローバル時代、ますます価値観は多様化し、それにともなって諍いも多くなるはずだ。それを賢く解くスキルは、今後もっと重要になる。多民族多宗教のマレーシアでは、対人的諍いに巻き込まれることも多いはずだ。そんな問題を、貴重な学習機会として活かせるようにできれば、諍いに巻き込まれたもの悪いことではないと、多少の慰めになるだろう。

 

まあ、もちろん諍いなど起こさないように、コミュニケーションに気を付けるのが一番なのだが。

 

 

渡部 幹(わたべ・もとき)
モナッシュ大学マレーシア校 スクールオブビジネス ニューロビジネス分野 准教授

 

UCLA社会学研究科Ph.Dコース修了。北海道大学助手、京都大学助教、早稲田大学准教授を経て、現職。現在はニューロビジネスという大脳生理学と経営学の融合プロジェクトのディレクターを務めている。社会心理学を中心として、社会神経科学、行動経済学を横断するような研究を行っている。また2008年に共著で出版した講談社新書『不機嫌な職場』が28万部のヒットとなったことをきっかけに、組織行動論、メンタルヘルス分野にも研究領域を拡げ、企業研修やビジネス講師等も行っている。
代表的な著書に『不機嫌な職場 なぜ社員同士で協力できないのか』(共著、講談社刊)。その他『ソフトローの基礎理論』(有斐閣刊)、『入門・政経経済学方法論』、『フリーライダー あなたの隣のただのり社員』 (共著、講談社)など多数。

 

記事掲載日時:2018年07月24日 15:44