icon-plane 第30回 東南アジアがASEAN共同体に到るまで その1

第30回 東南アジアがASEAN共同体に到るまで その1

 

今回は、マレーシアを含む東南アジアに目を向けてみましょう。そもそも「東南アジア」とはなんなのでしょうか? この定義から、ASEANの創設までには、それぞれの国の思惑がありました。

 

2015年末にASEAN共同体が設立されてまもなく3年。共同体の実態はともかく、東南アジアという地域が一つの枠組みとなって共同体として創設されたことは、この地域の歴史を考えると非常に大きな意味があります。今回は2回に分けて東南アジア地域がASEAN共同体に至るまでを見ることにします。

 

地域としての「東南アジア」は古い

 

そもそもASEANとはAssociation of Southeast Asian Nationsの略で、日本語で「東南アジア諸国連合」と訳されます。ASEANという言葉のなかには「東南アジア」の英語名が入っているのがおわかりでしょう。あまり知られていませんが、「東南アジア」という言葉自体は欧米で作られた言葉で、その歴史はかなり古いのです。

 

単語としての「東南アジア」が最初に使われたのは1822年。英国の新聞がSouth-east of Asiaと使用しました。しかし、単語の定義については触れられておらず、中国も含まれる広範囲の意味で使われたようです。

 

その後、著者が不明の旅行記『Travels in South-Eastern Asia』がロンドンで出版。また、1839年にはハワード・マルコム牧師が、米国ボストンで同じ題名の旅行記を出版しました。
「東南アジア」という単語はその後、英字新聞上でもときおり使われ始め、読者にも認識されるようになりました。20世紀に入るとシンガポールに設立された保険会社が新聞に「東南アジア支店」という広告を出していました。

 

一般に「東南アジア」という言葉は、1943年に日本軍を駆逐するために連合軍が「東南アジア司令部(South East Asia Command: SEAC)」を創設し普及したともされていますが、実際には上記のように英語を操る一般の人には馴染みがあったのです。

 

しかしながら、「東南アジア」の地域概念については人それぞれでした。この地域を対象とする学者やライターはまちまちの概念をもっており、人によってはアフガニスタンや日本を入れるといった類でした。また、現在のインドネシアやフィリピンを含めない学者もいるなど定義は一致していなかったのです。

 

 

当初の地域概念はバラバラだった!

 

 

戦後になると現在の東南アジア地域では冷戦の場ともなっていきます。

 

フランスが仏領インドシナから撤退した後、この地域の共産主義の拡大に対抗するため、東南アジア条約機構(SEATO)ができます。豪州やフランス、英国、米国、ニュージーランドのほか、パキスタン、フィリピン、タイの8カ国が加盟しましたが、半分は地域外の国々で純粋な地域機構ではありませんでした。また、条約条文でも「東南アジア」の定義は「一般的にいわれる東南アジア」としているのみで、明確化されていませんでした。ちなみに、当時のパキスタンは現在のバングラデシュ(東部パキスタン)を領土にしていたため、この時代はパキスタンを東南アジアに含めていた学者も多数いました。

 

その後、マラヤ連邦、タイ、フィリピンの3カ国は東南アジア連合(ASA)を1961年に創設します。これはマラヤ連邦のラーマン初代首相による肝入りのプロジェクトでした。

 

しかし、ラーマン首相がマレーシア連邦の結成計画を同年に打ち出してから1963年には休止状態に陥ります。現在のサバ州の領有権を主張していたフィリピンがこの計画に異論を唱えたためです。

 

マラヤ連邦を巡りインドネシアとフィリピンが深刻に対立し、インドネシアのスカルノ大統領は「マレーシア粉砕」を唱えました。この過程でマラヤ連邦、インドネシア、フィリピンの妥協の産物として「マフィリンド」という「マレー人主体の地域機構」ができあがったのですが、ほとんど機能せずに消滅しました。

 

インドネシアで1965年9月30日にクーデターが発生し、スカルノ大統領はその後に失脚。すでに1963年9月16日に結成されたマレーシア連邦のラーマン首相は、対立を終わらせるために1966年から交渉を開始します。

 

そして、その対立が終焉して新たに創設されたのがASEANなのです。もともとマラヤ連邦の政治指導者らは大国インドネシアがASAに加盟してもらいたかったのですが、スカルノ大統領が拒否していました。加盟国が反共諸国であったために容共のスタンスを取っていた大統領自身が反対。欧米の造語である「東南アジア」を嫌っていたフシがあります。

 

ASEANにインドネシアが入ったことは画期的で、加盟したことで、自らを東南アジア諸国の一国と認めたことにもなります。ASEANという造語を作ったのも当時のインドネシア外相アダム・マリクとも言われていますが、1963年に米国の政治学者が発行した書籍にASEANの名称の提唱がされており、これから拝借した可能性もあります。

 

1967年に創設されたASEANは5カ国(インドネシア、シンガポール、タイ、マレーシア、フィリピン)でしたが、結成当初はセイロン(現在のスリランカ)に対しても加盟を打診していました。スリランカには多数のマレー人居住者もおり、またラーマン首相も英国への留学時に何度か通過していることもあって「東南アジア」に含めたかったのかもしれませんが、1980年代に断られています。

 

そして、5カ国はこの後に自らが地域の定義をしていくことになります。 

 

伊藤充臣■在馬歴13年目。マラヤ大学人文社会学科歴史学科で修士と博士号を10年がかりで取得。趣味は読書と語学。専門の東南アジアを極めるため、最近ではクメール語に注力している。

 

記事掲載日時:2018年12月01日 01:04