icon-plane なぜ日本人同士の人間関係はこじれやすいのか

なぜ日本人同士の人間関係はこじれやすいのか

日本人同士のコミュニケーションは難しい。同じ日本語で話しているのに、どういうわけか、言葉の小さなニュアンスを巡って揉めてしまうーーそんな経験をしたことはないだろうか。その理由には「日本語」が大きく影響している。日本語と英語の違いを踏まえた、グローバル時代のコミュニケーション術を語ってもらった。

 

「日本語だったら表現できるのに」は本当か?

筆者は大学院時代、米国ロサンゼルスに留学していた。まだ独身で、生まれ育った故郷を離れ、身寄りも友人もいない場所に単身渡米した。若干中二病なところも残っていたため、「誰も頼れない異国で一人武者修行」という状況に「俺って、カッケー」と酔っていた部分もあったように思う。

当然ながら、そんなものは現地についてすぐに吹き飛ばされ、競争の激しい大学院で、地べたをはいずるようにして、生き残るのに必死な日々が始まった。一日数百ページものリーディングが課され、それをクラスでディスカッションする。内容も、古典社会科学や哲学で、要は岩波文庫の古典を英語で数百ページ読んでいるようなものだ。ネイティブのアメリカ人でさえ、半分近くがドロップアウトしてしまう。英語圏で初めて過ごす筆者が、アメリカ人に交じって討論し、自分の存在感を示さなければならない。学んだことは多かったが、正直2度とやりたくはない。

大学院入学のための英語試験(TOEFL)のスコアは基準越えしていたものの、決して英語のうまくなかった筆者は、リーディング、スピーキング、ライティングのすべての面で相当苦労した。アメリカでは、どんなに頭の中でいい考えを持っていても、英語で表現できなければ、「何も考えていない」とみなされる傾向がある。自分の考えを英語で表現できない筆者は、当時「頭の悪い生徒」でしかなかっただろう。

それだけに、かなり悔しい思いをした。「日本語だったら表現できるのに」と何度も思った。

ところが、アメリカで過ごして2年が過ぎたころ、あることに気づいた。「自分は日本語でも何も表現できていなかったかもしれない」ということに

日本語と英語の違いは山ほどあるが、筆者が強く感じるのは、「日本語の表現には意味ある文脈が組み込まれていることが多い」ということだ。例えば「遺憾に思う」と表現は、英語では通常regret(残念に思う)やdeplore(嘆く)と訳されるが、どちらもニュアンスが違う。筆者の解釈では、「遺憾に思う」という言葉には「本当は自分が悪いとは思っていないが、残念に思う、反省している」という文脈がすでに組み込まれている。日本語では単語一つが文脈を規定する。

英語にもそういう表現がないことはないが、日本語に比べると極端に少ないように思う。簡単に言えば、英語の表現は直接的なのだ。そして言葉と文脈は分かれている。例えば、I love you.は、友人にも、家族にも、恋人にも頻繁に使われる。日本語で「家族を愛している」という表現を使うときは、そうとう限られた場面、例えば自分の死を目の前にした父親が吐くセリフだったりする。

私たち日本人は、このように言葉の端々に含まれる文脈にとても敏感になっている。例えば「今日は、お召し物が素晴らしいですね」と言われたときに、「今日は」ということは、いつもはダメだということか、と解釈してしまう。相手はただシンプルに自分のことをほめてくれたのに、「本当は嫌味だったでは」「他の人の手前そう言ったのでは」などと勘ぐってしまう。褒め言葉の細かいニュアンスが気になるのだ。

日本語を使うと、ありもしない他人の面裏が気になることがある

筆者の経験では、そういうことに敏感になっていると、人間関係はこじれやすくなる。すべての人が日本語を正確に使えるわけではない。状況には合わない表現をすることも多々ある。筆者自身もそうだ。

そこを過敏に反応すると「あの人は口ではああいっているけれど、本音は違うはずだ」と、ありもしない他人の裏表を気にすることになる。そう思って他人に接すると、疲れるし、他人かも誤解を受けやすい。筆者の経験では、以前に述べた「社会的ビクビク人間」ほど、そういうことを気にする傾向があるように思う

筆者が英語で勉強、仕事をしていて学んだことの一つは、特に会話では「日本語の中に含まれる意味ありげな文脈を気にしない」ということだ。簡単に言えば、「言われたことを言葉通りに解釈し、裏読みしない」ことである。その代り、自分も簡単で直接的表現を使う。

実はこれを心がけることで、英語を話すのが格段に楽になった。例えば「遺憾に思う」を筆者が言うのならば、” I honestly do not think this is my fault, but I am sorry for your trouble.”となる。これを真っ正直にいうと、日本人には嫌われることもある。だがそれでいい。そこで筆者を嫌う人とは、たぶん上手くコミュニケーションは取れないからだ。そういう人と付き合っても、お互い疲れるだけである。

自分の考えを英語にするとき、「遺憾に思う」をそのまま英語にしようとするから、難しく感じる。遺憾に思うとはどういう意味か、を自分で考えて、解釈して直接的に表現すると、好かれるかどうかはともかく、言いたいことは「伝わる」。
そして筆者は日本語でもそういうコミュニケーションをとるように心がけている。時には失礼な表現も出てきてしまうが、「伝わらない」ことに比べたら、「失礼でも正確に伝わる」方が重要なことだと思っている。

グローバル時代では、人種や文化や言語の違う人々とともに仕事をする機会が増えてくる。その際に、言語の中の細かいニュアンスや文脈を気にしていては、コミュニケーションは取れない。直接的でわかりやすい表現が必要だ。そして、文脈も言語以外、しぐさや感情などで、わかりやすく表現する工夫が必要である。マレーシアという多民族、多宗教の国では、それが特に必要だと筆者は感じている。以前のコラムで書いた「相手の本質を知るための真のコミュニケーション」はこういった工夫から生まれるのだと筆者は信じている。

渡部 幹(わたべ・もとき)
モナッシュ大学マレーシア校 スクールオブビジネス ニューロビジネス分野 准教授

UCLA社会学研究科Ph.Dコース修了。北海道大学助手、京都大学助教、早稲田大学准教授を経て、現職。現在はニューロビジネスという大脳生理学と経営学の融合プロジェクトのディレクターを務めている。社会心理学を中心として、社会神経科学、行動経済学を横断するような研究を行っている。また2008年に共著で出版した講談社新書『不機嫌な職場』が28万部のヒットとなったことをきっかけに、組織行動論、メンタルヘルス分野にも研究領域を拡げ、企業研修やビジネス講師等も行っている。
代表的な著書に『不機嫌な職場 なぜ社員同士で協力できないのか』(共著、講談社刊)。その他『ソフトローの基礎理論』(有斐閣刊)、『入門・政経経済学方法論』、『フリーライダー あなたの隣のただのり社員』 (共著、講談社)など多数。

参考 日本的ムラ社会の原因は「社会的ビクビク人間」

記事掲載日時:2018年03月07日 15:57