マレーシアではゴムやパーム油の産業は非常に大きい産業ですが、砂糖の生産はとても小さい規模で作られています。しかし、前回お話したコーヒー栽培のようにサトウキビも一時期大きな農園があり、一大産業として栄えた時期がありました。今回はその歴史をみることにします。
砂糖農園は、18世紀からすでにペナン島バトゥ・カワン地区で中国人が経営していたようです。農園を営む中国人のほとんどが広東省東部の潮州人。潮州では当時、砂糖の生産が盛んで、新天地で事業をするため、数百人がペナンに移ったのです。作った砂糖は主にペナン島周辺で売られていました。潮州人のサトウキビ農園数は1840年代までに80軒を超えていました。
1833年に英国議会で奴隷廃止法が成立し、労働者不足が深刻化したことから、砂糖の国際価格が高騰。これによる利益を得ようと、モーリシャス諸島などに住んでいた英国人らがペナン島やその対岸のウェレズリー州(現在は本土側のペナン州)にサトウキビ農園を開園していきました。
1860年当時の中国人の農園面積はわずか1,000エーカー以下でしたが、英国人らは次から次へと開園していき、1890年代までには農園面積は1万エーカーを超えたのです。
中国人や英国人らはその後、ウェレズリー州からぺラにも農園を拡大。スランゴールやジョホールにも一時期農園ができました。
中国人の砂糖はペナン島周辺で販売されていました。しかし英国人らが農園を開園し砂糖の生産が始まると、砂糖は輸出商品となって世界経済に組み込まれました。ペナン港から主に英国に輸出され、その量は年々増加していったのです。
英国人たちは、それまで中国人が使っていなかった方法を導入しました。まず、砂糖の製法です。中国人は18世紀からの伝統的な製法、つまり、水牛を使ったローラーでサトウキビを潰して液体化し、それを煮沸して砂糖を作っていました。一方で、英国人らは最新の水蒸気を利用した圧搾機をすでに開発しており、これを導入して生産。加工工程でも少人数で作業ができ、コストを抑えられたのです。
また、英国人らは運搬方法でも画期的な方法を導入しました。マングローブを利用して運河を作り、サトウキビを船で運ぶ方法を取ったのです。サトウキビの運搬は時間も労力もかかり、厄介な問題でしたが、農園内での運搬方法を見事に解決したのです。
こういった新たな方法を導入したのにもかかわらず、英国人らが頭を抱えたのは収穫までの人件費の問題です。
マレー半島はジャングルに覆われていることが多く、農園を開拓するにはこれを切り開かなければなりません。開墾して野焼きをし、水はけをよくするための排水溝を作った後にサトウキビを植えます。収穫は植え付けから14~18カ月後。収穫までの作業に要するコストが多くかかり、平均2.5ヘクタールにつき1人の労働者が必要でした。このため、一つの農園だけでも数百人の労働者を雇う必要があり、人件費は大きな問題だったのです。そこで注目したのが中国人経営者との協力です。
砂糖の輸出の増加で、中国人経営者も加工工程の改善を迫られていました。しかし、機械導入には莫大な費用がかかり、資本もない。伝統製法ではすでに競争に打ち勝てないことは認識していましたが、どうすることもできません。しかし彼らは中国やインドからの移民労働者を抱えていました。
一方、英国人経営者らは安価な季節労働者のみが必要で、中国人労働者を雇ってコントロールするのも難しいと判断していました。
英国人らは中国人経営者と契約を結び、農園内の決められた区画内を中国人に任せ、収穫時に契約で定めた価格で買い取る方法をとったのです。また、中国人経営者らは自分の農園で収穫したサトウキビを英国人の農園に納品して加工工程を任せ、ウィンウィンの関係となりました。
こういった方法が奏功し、マレー半島は19世紀末には世界でも有数の砂糖生産地となっていったのです。
サトウキビ農園内の問題が解決でき、農園の増加で生産量も上がっていったのですが、別の問題が発生しました。それは移民の増加による食の問題です。
スズ鉱山などにも中国からの移民が入ってきていたので、サトウキビ農園のみの労働者数を割り出すのは難しいのですが、少なくとも数千人が従事していたとみられます。移民者数の増加で、マレー半島内で自給自足できなくなり、コメは慢性的に不足してビルマ(現在のミャンマー)やシャム(現在のタイ)からの輸入に頼っていました。
サトウキビ農園の土地は、もともと田んぼであったところを買い取って開墾したところも多く、そのため農園周辺では稲作農民がコメを栽培していました。
しかし、サトウキビ農園の運河が水を堰き止めることから、水を多用する周囲の田んぼに影響が出ていました。農民らは植民地政府に苦情を申し立てたことから、政府はサトウキビ農園の拡大を抑え、田んぼを拡大する方針に転換しました。
また、19世紀末から自動車産業の発展で世界的なゴム需要が増え、植民地政府はゴムの栽培に力も入れ始めました。サトウキビ農園ではインド人移民を使っていましたが、過酷な労働でもあったため、逃げる者も多く、慢性的な労働者不足となりました。一部はゴム農園で働き始めたインド人もいたようです。さらに農園周囲の農民との問題もあって、板ばさみになり、多くの農園経営者らは次々と経営を断念していったのです。
経営者らは砂糖をやめてゴムやココナッツの栽培に切り替え、ウェレズリー州では1890年に12軒を数えた農園数が、20世紀に入ると一桁に減少。1914年には最後のサトウキビ農園が閉園し、マレー半島からサトウキビ栽培が姿を消すことになったのです。そして、これと同時にゴム栽培の時代が本格的に到来することになりました。
サトウキビ農園は現在、マレーシア国内でも見られます。サトウキビ栽培に際しての気候が合うペルリス州やクダ州に主にありますが、国内でサトウキビが再び栽培され始めたのは1960年代になってからで、英国人らが断念してから半世紀も経ってから復活したのです。
伊藤充臣■在馬歴13年目。マラヤ大学人文社会学科歴史学科で修士と博士号を10年がかりで取得。趣味は読書と語学。専門の東南アジアを極めるため、最近ではクメール語に注力している。
記事掲載日時:2018年07月02日 10:26